基調講演:
「いま一度アジアから学ぶ」
2023年9月9日
京都市立芸術大学名誉教授
柿沼敏江
本日は、アジア作曲家連盟の台湾での大会にお招きいただきまして、誠に光栄に存じます。日本から参加をさせていただきます柿沼敏江です。どうぞよろしくお願いいたします。
アジア作曲家連盟は1973年に発足しましたので、今年50周年を迎えます。創立から半世紀という素晴らしい節目を迎えられたことにつきまして、まずはお祝いを申し上げたいと思います。このたびは音楽学者の沈雕龍(チン・チョウリュウShen Diau-Long)氏にお声をかけていただきまして、本日お話しさせていただくことになりました。沈氏およびACL-Taiwanの会長、連憲升(Lien Hsien-sheng)氏をはじめ関係各氏に感謝を申し上げます
私は日本の音楽学者で、しかもアメリカ実験音楽を専門としております。そうした者がなぜここでアジアの音楽や作曲家をテーマにしてお話しするのかと訝しく思われる方もいらっしゃるかもしれません。そこで自己紹介を兼ねまして、私事を含めながらお話しを始めさせていただきたいと思っております。なお中国、台湾の方々のお名前につきまして、日本式の発音をさせていただきますことをお許しください。
私は1983年にカリフォルニア大学サンディエゴ校の030310博士課程に留学しま した。そして留学中の1984 年に、一緒に留学をしていたパートナーで作曲家の藤枝守が第5回入野賞を受賞しましたので、それを機に、入野禮子先生とも知りあうことになりました。ご存知のように入野禮子先生(旧姓高橋冽子先生)はアジア作曲家連盟の創設者の一人である入野義朗氏の夫人で、義朗氏亡き後も、連盟の大会には毎回のように出席され、重要な役割を果たしてこられました。禮子先生は昨年、沈雕龍(チン・チョウリュウ)氏からインタヴューの依頼を受けて、その準備をしている矢先に突然怪我をされ、治療が長引くなかで、そのまま亡くなられてしまいました。入野義朗氏のオペラ《曽根崎心中》の再演を目前にしてのことでした。思いがけない急なご逝去に、皆が驚き、また悲しみました。本当に残念でなりません。この場を借りて、心からご冥福をお祈りしたいと思います。
さて、私はアメリカ留学中にアメリカ実験音楽、とくにハリー・パーチを研究することにしましたが、その関係でパーチをよく知る作曲家のルー・ハリソンにインタヴューをさせていただくことになりました。これが大きな転機になったように思います。と言いますのは、ハリソンの存在感、その視野の広さに圧倒されてしまうとともに、その影響で音楽の聴き方も変わったように思われるからです。
ハリソンの音楽を聴いた人は、しばしば「東洋趣味」という言葉を使って片付けようとするのですが、それは大きな間違いだと思います。そうした見方をするのは音楽を表層的にしか聴いていないからで、ハリソンがアジアの音楽を表面的に取り入れている作曲家とは全く違うということは、インタヴューの内容からもよく分かると思います。
インタヴューをしてともかく驚かされたのは、ハリソンがアジアの音楽に大変詳しいということでした。とくに当時70歳になっているのに、ガムランについてはカリフォルニアにいるインドネシア人の専門家パク・チョクロに師事し、毎日勉強しているというのです。また韓国音楽に惚れ込んでしまったので、韓国音楽を学び、韓国の著名な音楽学者、李恵求と一緒に英語で韓国音楽の歴史の本を書いているとも言っていました。これは残念なことに、いまだに未出版です。ハリソンは韓国の篳篥(ピリ)の名手で、この楽器を教えることを許可されていたほどの腕前でした。あとで知ったことですが、ハリソンは1961年に台湾の古琴や箏の演奏家、梁在平(Liang Tsai-Ping)に東京で出会って親しくなり、梁在平はその後ハリソンを台湾に招いています。またハリソンも梁在平をサンノゼ州立大学に招き、友好関係を続けていたようです。
インタヴューでハリソンは、世界の三大宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)は皆アジアで生まれていると述べてアジアへの敬意を示し、ヨーロッパを「北西アジア」と呼びました。そして「北西アジア」音楽のあらゆる方策は尽きてしまったと言っていました。2007年にインド出身の歴史学者ディペス・チャクラバルティDipesh Chakrabartyが『ヨーロッパを地方化する——ポストコロニアリティと歴史批判Provincializing Europe: Postcoloniality and the Critique of History』という本を出して注目されましたが、ハリソンはそれよりもかなり早い時期に同じことを言っていたわけです。中世においてはヨーロッパとアジアは繋がっていました。近代的なヨーロッパを普遍的な基準ではなくアジアという広大な地平の中のひとつの地域と考えるというこの発想、そしてインドネシアを「東南アジア」と呼ぶのであれば、ヨーロッパは「北西アジア」という一地域になるのだというこの発想は、きわめて刺激的でした。しかもハリソンはアジアではなくアメリカの作曲家なのです。
このインタヴューによって、私は日本人である自分がアジアについても日本についても何も知らないことに気づきました。しかし、アメリカ実験音楽を学ぶことが、アジアや世界の民族音楽に関心を持ち、それらを学ぶことにつながりました。なぜなら、作曲家たちが様々な民族音楽の影響を受けていたため、アメリカの作曲家たちを研究するためには、そうした民族音楽を学ばざるを得なかったからでした。
カリフォルニア大学の博士課程ではハリー・パーチの創作楽器について研究し、博士論文を書いたのですが、参考にした研究書の半分は民族音楽関係でしたので、半ば民族音楽を研究しているような気分になったことを覚えています。1989年になんとか博士論文を書き終えて帰国すると、たまたまハリソンの著書Music Primerを訳す機会をいただき、はじめて翻訳書を出版させていただきました。原題はMusic Primerですので、本来でしたら「音楽入門」とでも訳すところですが、内容が普通の西洋音楽ではなくて、韓国や中国、インドやインドネシアの音楽からシェーンベルクやジョン・ケージまで世界の様々な音楽を幅広く扱ったものでしたので、『ルー・ハリソンのワールド・ミュージック入門』という邦題にしました。
すると、ちょうどその頃に入野禮子先生が入野義朗音楽研究所(JML=Japan Music Life)で何か講座をやらないかと声をかけてくださいました。そこでハリソンのこの本をテキストにして、藤枝と一緒に「ワールド・ミュージック講座」をやらせていただくことになりました。帰国したばかりで、まだほとんど仕事がない状態でしたので、大変ありがたいことでした。
帰国の翌年の1990年に「アジア音楽祭」が東京と仙台で開催されました。この時には、中国や上海、香港、台湾から多くの作曲家が来日されまして、様々な作品や演奏を聞かせていただくことができました。なかでもカンボジアの作曲家チナリー・ウング氏が地元の演奏家を率いて演奏している姿を見て、ひじょうに感銘を受けました。日本の現代作曲家で、伝統楽器の楽団を率いて演奏できる人はいないからです。「アジア音楽祭」では入野禮子先生がアジアの作曲家の方々を紹介してくださいましたので、多くの方々と知りあうことになりました。またこの時にある雑誌からの依頼で、中国出身でアメリカに留学した譚盾にインタヴューをする機会をいただきました。
入野禮子先生からはその後も、様々な機会にお声をかけていただきました。1994年、ACLの創立者の一人である許常恵(Hsu Tsang-Houei)氏の講演にお招きいただきました。許氏は「アジアの音楽『台湾』」という題目で、長年研究をされている高砂族の音楽、漢民族の音楽、そして西洋音楽が移入されて以降の近現代の音楽に分けて、理路整然とお話しくださいました。この講演のメモは今でも大切に保管しております。お話の内容も興味深いものでしたが、許氏の日本語が大変素晴らしくて感銘を受けました。講演の後で、入野先生のお宅で歓迎会がありましたので、参加させていただき、「日本語お上手ですね。私よりお上手です」と許氏に申し上げると、驚いたような顔をされていました。実際、許氏の日本語は私たちより一世代前の日本語で、非常に格調高い響きがいたしました。しかしながら、それはまた日本の統治下で生まれ、若い頃に日本で音楽を学ばれたという経歴によるものであることを考えますと、日本人としてはそれと同時に大変申し訳ないという思いもいたしました。
台湾からはまた、林道生(Lin Daw-Shen)氏が1994年と1997年に来日され、JMLで台湾の高砂族の音楽、アミ族の音楽について講演をされました。これら2回の講演も聞かせていただきましたので、台湾の音楽については、少々詳しくなったように思います。
このように入野義朗氏亡きあと、入野禮子先生のご尽力によって、ACLの催しのほかにもアジアの作曲家たちとの交流は絶えることなく続いておりました。その後、私は京都市立芸術大学で教えるようになったのですが、この大学の作曲の先生である中村典子氏が、毎年学生を中心として台湾、韓国との交流に力を入れていましたので、各地においてアジアの音楽交流は様々な形で継続していたように思われます。
2003年にはアジア作曲家連盟の設立30周年を記念して「アジア音楽祭2003 in Tokyo」が開催されました。この時には周文中(チョウ・ウェンチュン)氏が基調講演「アイデンンティティを超えて」をなさいました。またフィリピンのラモン・サントス氏、イスラエルのダン・ユハス氏、日本の野田暉行氏によるシンポジウム「音楽のアイデンンティティ」も開催され、アイデンティティをテーマとして活発な議論が行われました。
この周文中氏による基調講演はACL設立の経緯を知るうえで大変興味深いものです。1966年、マニラでアジア人による初めてのアジア音楽についての国際音楽シンポジウムが開かれた時に、フィリピンのホセ・マセダ氏とルクレシア・カシラグ氏、許常恵氏、そして周氏が集まって話をしたそうです。その時マセダ氏がアジア人の問題意識や求めるものが西洋では無視されていると大声で不満を述べたので、周氏がそれならアジア人のための国際音楽協会を作ったらどうかと提案をしたそうです。これを許氏が真面目に受け取ってくれて、数年後に仲間とともにACLを設立したということでした。つまり、まずはフィリピンのマニラでの国際会議があり、その時の議論が元になってアジア人作曲家のための会の結成へと動きが進んでいったわけで、ACL設立までには様々な人たちの熱意と知恵と努力とが表には見えない形で結集されていたのです。
この2003年のシンポジウムで、フィリピンのラモン・サントス氏が大変重要な発言をされました。アジアの遺産をどう継承するのかという時に、ただ音楽や芸能だけを対象とするのではなくて、社会的、文化的な仕組みも含めて考えないといけないということを言われたのです。かつては宮殿や寺院で行われていたものが、現代では巨大なパイプオルガンを持つコンサートホールで上演されるようになり、そこに西洋式の平均律が導入された結果、アジアの人々の表現が物理的、精神的に弱体化してしまった。伝統音楽をそうした人工的で異質な場所で演奏させると、表現と自然環境との間で築かれてきた貴重な関係性が失われることになる、というのです。
これは非常に重要な指摘です。ただ音楽や芸能を継承すればいいのではなく、上演される環境も含めて考えないといけないということです。アジアの社会環境がもつべきインフラ、そして表現やパフォーマンスのための仕組みが重要で、それを再生する必要があるというご発言でした。
この問題を考えるために、最近体験した催しを取り上げてみたいと思います。東京の中心部にあるサントリーホールは、クラシック音楽の殿堂として知られている場所です。ここは世界でもトップクラスの演奏家が集まり、腕前を披露する最高峰のコンサートホールのひとつです。このクラシックの殿堂で毎年恒例となっているサントリー・サマー・フェスティヴァルがつい先日開催されたのですが、通常なら最先端の現代音楽が演奏されるこの場が、今年は一時的にインドネシアの村に占拠されました。
とくに注目されたのは、小ホールで行われたEn-gawaというプロジェクト型のコンサートです。このプロジェクトのディレクションは、インドネシア在住のアート・コレクティヴ「KITA」が担当しました。KITAは2022年に様々な分野と国籍のメンバーによって結成されたグループで、KITAとはインドネシア語で「私たち」を意味するそうです。
彼らは、小ホールにインドネシアの村を作り出しました。小ホールの舞台を取り払って、中央に4本の柱と屋根のある小屋を建てました。この小屋には壁がありません。誰でも自由に出入りできる空間です。彼らがジョクジャカルタで拠点としている建物を、小ホール内に作ったのです。インドネシアではこうした伝統的な家屋で、結婚式や祝祭、影絵芝居が行われたりもするようですが、そこはまた子供たちの遊び場や昼寝の場所にもなり、鶏がやってくるような自由な公園のような空間になっているそうです。ホールに建てられたこの小屋の周囲には、日本の古い家屋にある縁側のような台がいくつも置かれています。「縁側Engawa」とは家の座敷と庭との間に設けられている板張りのスペースですが、ここは内と外の境界線であり、内でも外でもない中間地点です。この縁側にお客さんが自由に座れるようになっていました。ホールの壁ぎわにはお店が出て、食べ物やグッズの販売も行われました。まさにインドネシアの村が出現したのです。ここで伝統的なガムランの演奏やガムランのための現代曲(そこにはルー・ハリソンやジョン・ケージの曲も含まれていました)の演奏、トーク、パフォーマンスが3日間にわたって繰り広げられました。
実際にガムランを演奏した人に話を聞いたところ、小屋の中に座ると大変居心地が良く、気分よく演奏ができたとのことでした。つまりそこは西洋音楽を演奏する通常のコンサート・ホールとはまったく違って、ガムランを演奏するのに相応しい環境へと変貌していたのです。2003年にラモン・サントスさんが指摘されていたように、音楽や芸能を行う場所や環境が重要だということをまさに証明するような状況が発生したのです。
KITAというグループのリーダーの北澤さんの話も興味深いものでした。彼らは、インドネシアで何かのイヴェントを行う際に、入場料を取らないというのです。なぜなら料金をとると、払う人ともらう人という差異が生まれ、「KITA=私たち」ではなくなってしまう。あなた対わたしではなく、私たちでありたいと。人々が必要なものを持ち寄ってイヴェントを行い、助成金を取ったりもしながら工夫してやっているということでした。これは現在行われているようなアート・マネジメントの仕組みを覆すような前近代的なやり方です。かつての村社会を思い起こさせるような手法とも言えます。助成金を取るということだけが、現代的かもしれません。しかし北澤さんは、こうした取り組みは近年注目されていて、ヨーロッパの人たちが関心を持ってくれているという驚くべき話をしてくれました。
さらに注目すべきは、アートに関する考え方の斬新さです。普通は、私たち人間がアート作品を作るという考え方をしますが、彼らはそうは考えないというのです。環境の中にアートがあって、それが私たち人間をつくってくれるというのです。つまり、重要なのは、環境であり、場だということです。日常の生活の中に生きたアートがある、そうしたみずみずしい環境をつくることが、私たちを豊かにしてくれるという逆転の発想なのです。今回サントリーホールに出現した小屋は、出入り自由な壁のない空間でしたが、この場にはガムランの音楽が流れ、人々の声や子供たちの叫び声が聞こえました。そうした自然で居心地のいい豊かな場や環境を人間は必要とするということでしょう。
インドネシアだからこそ出てくるような考え方かもしれませんが、これを前近代的で現代にはそぐわないものとして片付けることはできないように思います。これは素朴なやり方かもしれませんが、それと同時に極めて刺激的な戦略にもなりえます。今回、サントリーホールに出現した村を一時的なものとして片付けることは簡単ですが、そうではなくて、この経験を生かし、展開させていくことが求められているように思います。アジアの村的な発想は最先端にもなりうるのです。ここにはこれからのアートの仕組みや音楽のあり方を考えるヒントが隠されているのではないでしょうか。またそれは社会の仕組みも変えていくことになるかもしれません。
KITAの活動を知ることができたのは、大きな収穫でした。「東南アジア」から生まれた発想が、「北西アジア」の人たちの関心を呼んでいるということも、時代の流れなのかもしれません。ヨーロッパから学ぶものがないということではありませんが、いま一度「アジアから学ぶ」ことの重要性をあらためて認識させられた夏の音楽祭となりました。
台湾の学者でアジアのカルチュラル・スタディーズの第一人者である陳光興(Chen Kuan-Hsing)氏は『脱帝国』という本の副題に「方法としてのアジア」を掲げました。「方法としてのアジア」は、日本の中国文学者で魯迅研究者の竹内好の講演「方法としてのアジア」からとられていますが、また日本人の中国学者、溝口雄三の著書『方法としての中国』からも影響を受けています。つまりこの本は中国、日本、台湾という東アジアの学者の相互の影響関係から生み出された成果だとも言えます。陳氏はこの本で、西洋を基準とした思考(例えば進歩と遅れといった思考)から距離を置いて、アジアを基準として世界を認識し直すことが必要だと述べています。そしてアジア諸国が連携した「インターアジア」による協力がますます必要になっている状況を指摘しています。これまでもアジアから学ぶということは言われてきましたし、実践もされているのですが、おそらく十分ではなかったかもしれません。
アジア作曲家連盟も、同じような考えをもった熱意ある人々が集まって、50年前に設立されました。こうした「インターアジア」の構想をすでに半世紀前に持っていたことは、画期的なことと言えるでしょう。しかし「北西アジア」の影が色濃い日本の音楽界では、なかなかアジア的な思考に目が向けられていないのが現状であったかもしれません。そうしたなかで先日、西洋近代音楽の象徴とも言えるサントリーホールにインドネシアの村が出現したのは、目を見張るような光景でした。また大ホールでは、ホセ・マセダ氏の作品《ゴングと竹のための音楽》(1997)をはじめ、ガムランのための日本人による現代作品も演奏されましたので、サントリーホール全体が東南アジアに占拠されたような状況を呈しておりました。
ACLの設立に尽力した日本の作曲家、入野義朗氏は晩年インドネシアの音楽を熱心に勉強しており、亡くなった時には病室の枕元に関連した書籍が残されていたそうです。日本で初めて12音技法を使った作品を書き、この技法を広めたこの作曲家は、その後邦楽器のための作品を多数書きましたが、最後にはアジアに目を向けていたのです。入野氏が生きていたら、このサントリーホールの状況を見て、どのようにおっしゃったでしょうか。
1961年に出版された「方法としてのアジア」のなかで竹内好は、「西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻き返し、あるいは価値の上の巻き返しによって普遍性をつくり出す」と述べ、アジアの側から「北西アジア」を変えていくような構想を希求しました。そのためには、アジアから学び、インターアジアで協力し合うことが、現在ますます求められているように思います。いま一度アジアを方法とし、アジアから学ばなくてはならない時代になっているのではないでしょうか。
ご静聴ありがとうございました。